誰かの言動をまるで自分が受けたかのように躍起になって叩く人たち。
道端で、すれ違いざまに心ない言葉をかけたり態度を示す人たち。
その心の寂しさが垣間みられます。
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言葉の威力は強力です。
誰かの伝聞に対して自分の持論を展開する人たちの多さとその残酷さと言ったら。時には誰かを死に追いやることさえあります。
その人の人となりも知らないのに自分が聞いた一文だけを切り取って正しくない!と決めてしまう。
求めていることはなんでしょうか。正義でしょうか?秩序でしょうか。
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ある人に正体を明かさず暴言を吐いた人。
どうして?という回答に「俺はお前のしていないこと(出来ないまたはしたくないこと)をして頑張ってる、そのストレスをぶつけている」と言いました。
ストレス発散のために自分以外の誰かを見つけて、わざわざその人を攻撃する。本当はどうしたいの?そう聞きたい気持ちを抑えました。
その人が答えを求めて投げかけた先がわたしではなかったから。
投げかけられたその人が切り返すことに意味があるからです。
この辛さをわかって欲しい、誰かにぶつけて「怒って欲しい」「優しい言葉をかけて欲しい」。どちらでもいいのです、ただ反応して欲しいだけなのです。
誰かを攻撃したり誰かにしがみつく人ほど誰かの優しさも受け取れない。受け取れないから更に卑屈になってしまう。誰かを鏡のように思うけど実は自分自身で、そんな自分に暴言を吐き傷つけ続けているのです。
同情は簡単なことです。でもその人のためにはなりません。
本当はわかるはず、わかっているはずだから。
優しい言葉をかけてもらうには優しい言葉をかければいい。笑顔を返して欲しければ、笑顔で話しかければいいってことを。
知らないふりして認めないようにして、ただただ誰かの粗探しをして怒らせて。
怒りでもいいから誰かのエネルギーが欲しいのです。
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誰でも上手くいかない時、辛い時があります。
人生は自分自身と向き合って、そんな辛い気持ちも味わい尽くすしかないのです。そしてそこから立ち上がる強さこそ、のちの愛や優しさに繋がると思います。
でも実は「辛い」と気づいてない人がほとんどです。
自分を囲う枠の中だけを信じているから。そこにいる自分が苦しいんだってことには気づきにくいのです。
枠からはみ出して自由に生きる人が本当は羨ましい。窮屈な枠のせいで普段から我慢を強いられているから。
枠から出ることをきつく禁じられ、その人たちは今でもその教えを守っています。「安全安心」な枠を。
それは決して間違ったことではないです。でもその考えを誰かに押し付けたり、盾にして誰かを攻撃するのは正しいことではありません。
子どもの頃から誰かの干渉を受けず枠の広い人もいるし、どこかで挫折を味わいその枠を自ら広げた人もいるでしょう。
そんな人たちの自由な振る舞いに本当は憧れているのではないでしょうか。
誰かを批判的に思う時、一度自分に問いかけて自分の中の隠れた気持ちを探すのは大切なことです。
探して見つかった思いはきっと表裏一体であるはずだから。
本当はどうしたいのか、問題は外ではなく内にあるのです。
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小さな枠に囚われる。
人に攻撃こそしませんでしたが、私もそのひとりでした。
その枠から飛び出すことはとても勇気がいるけど、まずは広げることからはじめて行けばいいのです。
そこにいながら誰かの意見にも耳を傾けて、自分と違う考えもただ否定するのではなく一度受け入れてみる。
その繰り返しで少しずつ枠が広がります。そうしているうちにきっと毎日がもっと楽に楽しく過ごせるようになって行くのです。
みんなが苦しさから解放されて自分らしく生きていく、これからはそんな世の中になって行くといいですね。